第16話:鹿児島のイチローの回想録⑨ 「終戦記念日になると私の原点を思い出す」

1945 年 (昭和20 年)の6 月 17 日、アメリカ軍による鹿児島への大空襲で家を焼かれた私たちは 4km 離れた田舎へ疎開(避難)して、一軒の農家の作業小屋へ居を移した。

8 月15 日、おばあさんがやって来て、“日本は負けたというが、アメリカ軍のデマに違いない、もうすぐここにも攻めてくるから最後の戦いの準備をしなさい”と言って母には竹槍を、私には竹で作った小刀を渡して、“この砥石で切れるようになるまで研いでおきなさい“と言って研ぎ方を教えて帰って行った。

夕方やって来たおばあさんは私の小刀を手にとると、“ワーッ、この子は天才だよ、これは切れるよーっ”と大声で近くの人達に言った。

すると、見に寄って来た全員が、“本物と変わらないよ、これならアメリカ兵を刺せるし、自分のノドもかっ切れるよ”と口々に言ってたかと思うと、“私のも研いで”、“私のもお願い”、と大人気になった。

研ぐだけでなく、おばあさんに作り方も教えてもらって、二十人分くらい作って、“天才ちゃん”、“天才君”とあがめ奉りあげられた。

しばらく後に鹿児島市内に居るというおばさんがやって来て、“アメリカ軍の兵隊さんが沢山来ているけど、みんな親切で優しい人達ばかりだから安心して帰っておいで”と言うので、母の遠い親戚の家に間借りさせてもらうことになった。

そして、数日おきにアメリカ兵が食べ物や、ジュースを持って来てくれるようになったのだが、まだ少し疑っていた為に、私は自分で作った竹の小刀をズボンのポケットに忍ばせて貰いに行っていた。

四回か五回目の食べ物を貰いに行った時に小刀の柄がポケットからはみ出ているのをアメリカ兵に見つかって取り上げられてしまった。

子供心に、これは捕まえられて牢屋にいれられるなと思って泣き出してしまったところ、笑いながら肩を軽く叩いて自分のポケットからチョコレートを出して、半分に割って片方を私にくれた。

びっくりするやら嬉しいやらで、何度も何度も頭を下げて謝って、サンキューサンキューと大声で叫んだのだったが、今でもこの時のアメリカ兵の優しい顔を忘れることは無い。

後年19 歳の時に、太平洋戦争の時に中国をはじめ、あちこちで自動車部隊で戦ったという人に自動車技術を習う為に弟子入りしたのだが、良く殴る物凄く厳しい人だったが、私の刃物研ぎの上手さを気に入ってくれて、他の弟子達よりは色々な奥の手を教えてくれていた。

そして、驚いたことに、戦争では敵味方だったはずなのに、日本語の達者な三人の元アメリカ兵がその師匠に協力して我々日本の自動車社会の将来を担う若者達に“完全に無償”で運転の仕方や整備技術を教えてくれたのだ。

弟子の中では私が一番殴られていたのだが、“ハンク”という人が、“師匠は君のことを一番大事に思っているのだから、頑張って“、と、よく慰めてくれていた。

そして、ほとんど休みというものは無かったが、僅かな時間を見つけては神戸の場末のクラブに連れて行って、私にもウエスターンソングを教えてくれて、度胸がつくようにとアメリカ人たちの前で唄わされていた。

お陰で今カラオケで当時習った歌を唄うと、“帰国子女ですか”と言われるほどに、ニセの英語が上手いらしいのだ。

全然英語は判らないのに…

6歳でアメリカ兵と戦おうとして作った竹のナイフ、一瞬だけ天才と言われたのだが、厳しい師匠のお陰とアメリカ人技術者の親切もあって、その後 “自動車職人”として、はたまた、“バッティングセンター職人”としての長い人生を歩いているのだ。

終戦記念日が来る度に、“あ、まだ今年も生きているのか…”、と新たな感慨にふけっている。

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