鹿児島のイチロー魂のぶろぐ 第25話:鹿児島のイチローの回想録⑱「スイングスピード至上主義達の目を覚ます為に130km/h を 1500g のバットで !!」 野球人達はただひたすら盲目的にスイングスピードの向上に血道をあげている。バッティングセンターでは“打球の方向付け”が必要なので、スピードよりもスイングの正確さがモノを言うのだ。いくら速くても、正確にとらえることが出来なければ喜びの結果にはつ...全文はクリック 2021.09.07 鹿児島のイチロー魂のぶろぐ
鹿児島のイチロー魂のぶろぐ 第24話:鹿児島のイチローの回想録⑰「“200km/h を 1400g の超重量バットでもヘッドを出せるのだ” という最強の信念を得た」 バッティングセンターでは誰しもがホームランを打ってヒーロー気分に浸りたいと思って打っている。ところが野球と違ってホームランの範囲は極々僅かしか無いのだ。“打球の方向づけ”という困難な技術が必要なのだ。その為にはバットが重たい方がこの“方向づ...全文はクリック 2021.09.05 鹿児島のイチロー魂のぶろぐ
鹿児島のイチロー魂のぶろぐ 第23話:鹿児島のイチローの回想録⑯「鹿児島の野球の為に本気で命をかけた、使用ボールの変換」 メテオドームに本拠地を移して一年経った頃、ボールの飛びがいいことが気になりだした。軽く振ったのも簡単にさく越えしていた。県外から私に挑戦して来るスラッガー達の、“ここのボールは飛びがいいから、ホームラン王だと言っても他所では通用しない”とい...全文はクリック 2021.09.04 鹿児島のイチロー魂のぶろぐ
鹿児島のイチロー魂のぶろぐ 第22話:鹿児島のイチローの回想録⑮「“ヒットの延長がホームラン”という、甘えた考え方」 “鹿児島のイチローとの一対一のホームラン対決”というイベントが開催されて半年経った頃、元ノンプロの経験があるというスラッガーが参戦して来るようになった。“ヒットの延長がホームラン”という考えを基本にしていて、打率を上げればおのずとホームラン...全文はクリック 2021.09.02 鹿児島のイチロー魂のぶろぐ
鹿児島のイチロー魂のぶろぐ 第21話:鹿児島のイチローの回想録⑭「理論に固執して型にこだわる指導者とのテレビ対決」 ホームラン対決イベントで、若者達を相手にしながら老人の私の勝率が高いことがテレビ関係者達に知られだすと、色々なテレビの取材が増えて来た。そんな時、ディレクターの目に止まって私との対決相手に選ばれたのが、仕事として高校球児を指導している理論家...全文はクリック 2021.08.31 鹿児島のイチロー魂のぶろぐ
鹿児島のイチロー魂のぶろぐ 第20話:鹿児島のイチローの回想録⑬「“長期間、強さを維持出来ている秘訣を教えて” と」 三年前、新型の剛力マシンが導入されたのを記念して、強者たちだけを集めた第一回の 「130km/h におけるホームラン大会」がテレビ局の収録のもとで開催された。旧型マシンにおける私の色々な記録は全て破棄されて、新たな難しいマシンでの記録を打者...全文はクリック 2021.08.29 鹿児島のイチロー魂のぶろぐ
鹿児島のイチロー魂のぶろぐ 第19話:鹿児島のイチローの回想録⑫「“無から有を生み出す世代” の強味」 私が社会に出た 19 歳の時はまだ日本は戦争からの復興の途中にあって、まだまだ “無い物”が多々あって不便な時代だった。全てにおいて、“無から有を生み出さねばならなかった”、のだ。自動車技術の師匠に弟子入りしたのだが、修理の為の工具も機材も...全文はクリック 2021.08.27 鹿児島のイチロー魂のぶろぐ
鹿児島のイチロー魂のぶろぐ 第18話:鹿児島のイチローの回想録⑪「語りたがり達を 力づくでねじ伏せる“極細の 1200gバット”」 バッティングをやるようになってしばらく後に、あることに気づいた。野球人は、“語りたがり”、“教えたがり“が多くて、自分ではロクに打てないくせして、語りだけは一丁前というのがうじゃうじゃ居るということだ。私は若い時、自動車技術の師匠から“まず...全文はクリック 2021.08.24 鹿児島のイチロー魂のぶろぐ
鹿児島のイチロー魂のぶろぐ 第17話:鹿児島のイチローの回想録⑩「身体的な資質は何も持ち合わせが無いので知恵を絞って戦っている」 身長 163cm で体重が 54kg 前後を行ったりきたりの、バッティング仲間では一番の小柄。若い時に何も運動というものをやったことが無い為に、基礎的な力や運動能力は何も無い。全て 老体の62 歳になってから積み重ねて来たものばかりだ。コレ...全文はクリック 2021.08.22 鹿児島のイチロー魂のぶろぐ
鹿児島のイチロー魂のぶろぐ 第16話:鹿児島のイチローの回想録⑨ 「終戦記念日になると私の原点を思い出す」 1945 年 (昭和20 年)の6 月 17 日、アメリカ軍による鹿児島への大空襲で家を焼かれた私たちは 4km 離れた田舎へ疎開(避難)して、一軒の農家の作業小屋へ居を移した。8 月15 日、おばあさんがやって来て、“日本は負けたというが...全文はクリック 2021.08.20 鹿児島のイチロー魂のぶろぐ